◇「何かになりたいという夢などは持ち合わせていなかった。大学入学を機に親元を離れてつかの間の自由を手に入れ、卒業後はUターンして就職する。なんの疑問も抱いたことはなかった…。それが、ある人との出会いで変わった。大学2年の夏休み、携帯電話の電波も届かない場所にある山荘に住み込みでバイトをした。その人は、ひと回り年上の無口で不愛想な男で、必要なこと以外は何も話さない。いわゆる世間でいう変人。ただ、寝食を共にしているうちに互いの距離が少しずつ縮まり、休憩時間を共に過ごすようになった。

 東大を卒業し、人もうらやむような一流企業に就職していた過去がある。そこで目ににしたものは、出世欲にまみれ、保身のために同僚を平気で裏切る組織という名の地獄だった。取引先企業と癒着し、過剰な接待。それを当然のこととし染まっていく上司や同僚たち。悩んだあげく社内のコンプライアンス窓口にメールで相談をした。相談は極秘のはずだったが、突然、本社から東北への辞令が出た。つまり報復人事によるものだった。退職してタイやインドを放浪した。それからは、夏に山荘でバイトをして、また旅に出るという生活がずっと続いているという。

 その人は言った。◆「綺麗ごとだけでは生きていけないこともわかっている。清濁併せ呑む器量がないとこの世の中は苦しいこともわかる。でもそれができない人間もいる。金がすべての世の中なら、金で買えないものこそ大切ではないか。今の時代、誰もが欲望を満たすために、あるいは日々の生活のために金を求めあえいでいる。だが、金で買えないものとは利害を超越したものだ」◆と。

 心を打たれた。自分もそういう生き方がしたいと、1年間休学してタイ・インドなどを回った。道端に座り込み、無心で民族楽器を奏でているたくさんの人達に出会った。人間のあさましさを浄化してくれるようなそんな音色だった。「この民族楽器を極めてみたい…」、帰省した時、自分の主張を両親に伝えた。理解してくれるかもしれないという期待があった。でも、結局は大喧嘩の末に家を飛び出し今の生活が続いている」◇

【探偵シリーズ「10年の歳月…息子はいずこに」の息子から語られた言葉です。さまざまな背景があり、発見にいたる経緯は掲載できませんが、彼の言葉には現代に生きる若者たちの、「心の闇」というものが浮き彫りになっているような気がします。まだ母と息子の対面はかなっていません。私たちに語られていない親子関係の深い闇が存在しているのです。現在、カウンセラーが入り、親子関係の修復に向けて働きかけています】

*本文はいくつかの事例を基に構成されています。盗用・無断転用・無断転載を一切禁じます。

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